97  ファースト・デートの存在論

ファースト・デートというものがあったはずですが、覚えていません。なにごともファースト経験というものはあるはずです。

いつのまにか始まってしまった、ということかもしれない。真珠湾攻撃というものは、計画して、準備して、やめようと思うこともできましたが、結局は確信して実行されました。

筆者二四歳ころ、はるか昔のことですが、真鶴にドライブしました。次の休みにどこか遠出しようと決めたのは、日時を決めて出かけた初めだったと記憶しています。それがファースト・デートといえるかどうか、定かではありません。

決めた日の夜、路上駐車でファースト・キスをしたことは覚えていますが、翌朝起きてみたらその車がない。盗まれていました。施錠を忘れたのでしょう。

三日後、予定の日曜日、彼女が弟の車を借りてきてくれて、それで西に向かいました。

岩の海岸で手作りの弁当を食べたような記憶はありますが、よく覚えていません。ニットの感触ははっきり覚えていますからそれに集中していたのでしょう。

できる限り近づいていきたい。ファースト・デートは、なぜあるのか?動機のようなものを抽象すればそういえるでしょう。

近づければさらに近づく。相手が逃げなければ成功。休みなくさらに進む。それも成功すればさらに進む。野心家の人生ゲームに似ています。希望は正のフィードバックによって加速されるからです。 

接近という現象は、対象物が作る視角の拡大速度が大きくなることで自覚できます。視野に占める対象物の存在が間断なく増大すれば成功です。ハンターの原理。獲物を襲う捕食動物のメカニズムです。

視角拡大が加速されると、ついには対象の視角が視野より大きくなり、他のものが見えなくなります。さらに接近が強まると、視野は飽和し視覚は使えなくなります。

接触が始まるしかない。接触も極限まで進行すると、感覚空間全体が対象にめり込んでしまう。埋め込まれ融合します。 

この状況では、いわゆるソーシャルディスタンスは意味をなさなくなっているので、人間関係の世界、つまり言語で語り得る世界は消えていて、体性感覚の世界になっています。

私とかあなたとか、人間が得意な言語表現の世界は消失しています。ここで語ろうとしても小説もダメ、アニメも動画もダメ。比喩を使う詩は断片的に有効ですが、あまりうまくいきません。 動物の世界ですね。記憶もしっかりとは残りません。夢のようになります。それはつまり、人に語る必要がないからでしょう。

詩人は永遠を語る。地球と太陽の関係を語る。そのスケールになれば語れるかもしれません。

また見付かつた。

何がだ? 永遠。

去つてしまつた海のことさあ

太陽もろとも去つてしまつた。(一八七三年 アルチュール・ランボー「永遠」中原中也訳)

Elle est retrouvée !

— Quoi ? — l’Éternité.

C’est la mer allée avec le soleil.

大学生のころ、新宿で観た『気狂いピエロ』(Pierrot Le Fou ジャン=リュック・ゴダール監督 一九六五年)。主人公が爆死した煙を高空から俯瞰したエンディングでこの詩が流れます。フランス語で覚えたばかりの句だったので印象に残っています。

この詩の影響で、デートというならば夕日と水平線を見なければいけない、と思い込んでいました。一緒にそれを見るために、伊豆の西海岸、堂ヶ島に一泊でドライブに行きました。海の見える部屋をとれたか、夕日のとき晴れていたか、覚えていません。 

ファースト・デートの存在論を語る場合、語る価値があるとすれば、その最初の部分、つまり、なぜ初めから相手にひきつけられるのか?拙稿54章「性的魅力の存在論」で語った魅力の存在論です。

一瞬どう見えるか、が問題です。一瞬で脳裏(視覚野)に焼き付く。その前に動眼神経が動き瞳孔が開いてしまう?視床の反射が最初に来る、でしょう。

男も女も女の身体が美しく見える、というのが拙稿の見解です(拙稿54章「性的魅力の存在論」)。女の額は丸い。骨盤は胸郭より広い。性的二形を作る差異は一瞥で感知できます。女がここに存在する、と感覚で分かる。軽く柔らかい、と分かる。

その差異を美しいと思えるように人間の感受性は作り込まれています。しかし美しい花にはとげがある。つまり触りたくなる、という事実があります。薔薇には棘がある(No rose without a thorn)。直感で分かる。

棘を厭わず触れるか?触れたものをどうするか?

身体がすでに進んでくれれば理論はついてくる。ふつう対の理論がついてきます。

拙稿では男女一組という存在感を仮に「対の理論 theory of pairing、源流は共同幻想論(吉本隆明1968)」といいます(拙稿82章「付き合いの存在論」)。男女の対という観念は、つまり、男や女という観念よりもずっと根源的に存在する。世界は男女の対でできている。この相手と対がつくれる、と思えるかどうか、でしょう。そうでないならば進みません。

ファースト・デートの存在論もそれです。どの理論に基づいているのか?とにかく身体は近づいていく、世界によくある一対になろうという衝動。言葉では、付き合いとか、パートナーとか、実にいろいろな言い方をしますが、結局よくあるペアリング(拙稿82章「付き合いの存在論」)のことです。 

抽象的には「個別的な人格性を放棄して一人格を成そうとすることの同意。そのことによって実体的自己意識を獲得する」(一八二一年 フリードリヒ・ヘーゲル「法の哲学」第一六二節)となります。言葉とは関係なく結局それを目指します。

理論はさておき、ペアリングは日常的に誰もが理解しています。ラブホテルで脱いだ二人の下着をペットボトルに詰めて川に流す話(二〇〇三年 平野啓一郎「高瀬川」)。市の予算でデートを支援する交際支援給付制度。古代の神話。

プラトン(紀元前四二八頃~紀元前三四七頃)の著作にある球体人間アンドロギュノスは、男女二体に分割されてしまったので片割れを求め続ける。古来の謎です。

ペアの相手は結果的に決まる、とも言えるけれども最初から決まっている、とも言えます。選ぶともいえるし選ばれるともいえる。追いつ追われつ、ともいう。

古来、この世は男と女、どの時代でも、どの男女でもまったく同じように近づき、寄り添って生きて死んでいきます(西暦九〇〇年前後「伊勢物語」)。森で出会う動物の雄と雌のようです。本能がそうさせるから当たり前である、と私たちは先生に教わって納得します。

しかし確かに、動物は求愛し交尾する精巧なメカニズムを備えている。効率的な生殖様式の獲得に成功した遺伝子ゲノムだけが現代に残っています。

形態は多種多様、進化と環境に適応した精巧な様式だけが私たちの目に見えています。動物のそれは、本能に基づいている、といわれるようになりました。

人間も動物である、という納得によって自分たちの存在の何かが分かるような気がします。

ただし人間に本能は不要でした。言語と模倣による学習が生殖の様式を文化として継承できたからです。人類において求愛と交尾の様式は文化として継承されていきます。

文化によるその様式の継承が他の動物種の反射的メカニズムよりも効率的で安定的であったが故に、それはフェロモンなど他のメカニズムを退化させ、言語の概念化で人類に実装されました。

その存在感は「対の理論 theory of pairing(拙稿82章『付き合いの存在論』)」として人類文化の無意識な下層に埋め込まれています。

古典文学をみれば(西暦九〇〇年前後「伊勢物語」)、(一〇〇八年 紫式部「源氏物語」など))物語は生来、男女があらゆる困難をかいくぐって一夜の逢瀬を求める語りとなっています。これが一国の文化の根幹をなしている。世界中そうでしょう。ファースト・デートの存在論はかく重要です。

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